LOGIN「必要な時だけ、お願いします」
「その線は越えません」 律は短く答えた。 念を押したのは私なのに、その返事で少し落ち着いた。 その日の午後、相良さんが作成した返信文を確認していると、別の連絡が入った。 差出人は、九条康生。 榊グループの代表窓口に届いたものを、秘書室が転送してきたらしい。件名は丁寧だった。 ――朝霧栞様との面談について。 件名を見ただけで、読む手が止まった。「読む前に、一度休みませんか」 律が言った。「読みます」 私は画面を開いた。 文面は驚くほど柔らかかった。 九条康隆は高齢で、近年体調が安定していないこと。突然の情報に動揺しており、本人の発言には誤解が含まれる可能性があること。朝霧栞には不安を与えたくないこと。 そして最後に、康生自身が一度会って説明したい、と書かれていた。 場所は都内のホテルラウンジ。 時間は今日の夕方。 同席者は不要。「必要な時だけ、お願いします」「その線は越えません」 律は短く答えた。 念を押したのは私なのに、その返事で少し落ち着いた。 その日の午後、相良さんが作成した返信文を確認していると、別の連絡が入った。 差出人は、九条康生。 榊グループの代表窓口に届いたものを、秘書室が転送してきたらしい。件名は丁寧だった。 ――朝霧栞様との面談について。 件名を見ただけで、読む手が止まった。「読む前に、一度休みませんか」 律が言った。「読みます」 私は画面を開いた。 文面は驚くほど柔らかかった。 九条康隆は高齢で、近年体調が安定していないこと。突然の情報に動揺しており、本人の発言には誤解が含まれる可能性があること。朝霧栞には不安を与えたくないこと。 そして最後に、康生自身が一度会って説明したい、と書かれていた。 場所は都内のホテルラウンジ。 時間は今日の夕方。 同席者は不要。 読み終えるころには、迷いはなくなっていた。「分かりやすいですね」「応じますか」 律の声に、試す響きはなかった。 本当に、私の返事を聞いているだけだ。「行きません」 今度は迷わなかった。「九条康隆さんの状態を心配してる人が、同席者不要で今日の夕方に私を呼び出すのは、おかしいです」「同じ違和感があります」「それに……今会ったら、何を言うかまで誘導されそうです」 言いながら、葬儀の席で見た康生の顔を思い出す。 私を見て、葵と呼んだ男。 あの時の視線を思い出すと、もう一度画面を読むのさえためらわれた。 あの人の言葉は、いつも柔らかい。柔らかいからこそ、どこまで沈むのか分からない。「返信します」「返信自体は、相良に任せられます」「いえ。文面は見てもらいます。でも、最初の言葉は私が書きます」 私はノートパソコンを開いた。 指は何度か、キーの上で止まった。
その紙を見た瞬間、私は九条家という名前が、もう遠くの家ではなくなったことを知った。 九条康隆からの手紙は、机の上に置かれたままだった。 便箋の端には九条家の紋が薄く刷られている。守り袋より細く、葬儀の供花札より古い意匠だった。 「今日中に返事を出す必要はありません」 律はそう言った。 「急いでは決めません」 「でも、黙っているつもりもありません」 言葉が少し強くなった。 律は何も言わなかった。ただ、私が続けるのを待っている。 「知らないままにしておくと、また誰かが、知らないところで私の話を進めます」 如月家で何度もそうだった。最後に知らされるのは、いつも私だった。 「会います」 「場所は、九条本邸なんですよね」 「先方は、そう希望しています」 「なら、入口から帰るまで、榊側の人にいてほしいです。途中で一人になるのは嫌です」 「分かりました」 口にすると、便箋の端を押さえる指に力が入った。 「ただし、条件を付けます」 律の目元が緩んだように見えた。 「条件を聞かせてください」 「九条家の人だけの部屋では会いません。榊側と九条側、両方の代理人を入れてください」 言いながら、指が便箋の角を押した。 「録音は最初から。面会は一時間くらい。あと、書類を出されても、その場では書きません」 言い切るまで、律は一度も遮らなかった。 「それと」 「続けてください」 「葵さんのことを、私にだけ先に見せるような真似はしないでください」 律の視線が、静かに私へ戻る。 「意味を確認しても?」 「母かもしれない人を、証拠として突き出されたくありません」 最後の部分だけ、声が続きにくかった。 言い終えると、しばらく次の言葉が出なかった。 まだ会ってもいない人のために、何を怒っているのだろうと思う。けれど、怒りの形だけははっきりしていた。 律はゆっくり頷いた。 「その条件で、相良に文面を作らせます」 「榊さんは」
「血がつながってるかもしれない。それだけで、九条の人間ってことにはならないでしょう」「でも、向こうはそう思わないかもしれない」「その可能性はあります」「九条家も、私をどう扱うか勝手に決めるんでしょうか」 自分の声が少し低くなった。 律は否定しなかった。すぐに綺麗な言葉をかぶせることもしなかった。 冷めた湯呑みを見ていると、そこに誰の手も戻らないことだけが分かった。「決めようとする人間はいるでしょう」「……正直ですね」「誤魔化す方が失礼です」 私は守り袋を手に取った。 軽い。 こんなに軽い布の中に、どうして二十四年分のことが詰め込まれているのだろう。「怖いです」 言葉は、考えるより先に出た。 律は手を伸ばさず、私の返事を待った。 律が手を伸ばしてこないことが、今は何より助かった。「……今日は、そのままでいいんじゃないですか」「保留にしたら、向こうが勝手に動きませんか」「動きます」「じゃあ」「調べるところは調べます」 律は机の上の資料を整えた。「会うかどうかは、また別の話でしょう」「検査」 鑑定という言葉で、机の上の書類が急に近く見えた。「DNA鑑定ですか」「いずれ必要になる可能性はあります。ただ、今すぐじゃない」「私の身体まで、証拠になるんですね」 言い終えて、自分が資料の一部にされる感覚に気づいた。 売られた子。取引された赤ん坊。今度は、血を調べられる人間。 書類に名前を書かれるたび、自分が人ではなく資料になっていく気がした。 律は少し考えてから、口を開いた。「DNAは、あなたが同意しない限りやりません」 そこで一度、言葉を切った。「必要になっても、先に確認します」 私は答えず、守り袋を机に戻した。 その時、扉が控えめに叩かれた。「失礼いたします」
あの頃の私は、少なくとも自分がどこに立っているかだけは分かっていた。 今は、立っている床の下から別の名前が出てくる。「康生さんは、葬儀で私を見てました」「見ていました」「私を、葵さんと呼びました」「口の動きだけでしたが、そう見えました」「榊さんも、そう見えたんですね」「私にも、そう読めました」 同じものを見た人がいた。その確認だけで、少し息が戻った。 私は資料から顔を上げた。「九条葵さんは、康生さんの何ですか」 律は資料から目を上げた。「康生の妹です」「妹」という言葉を、すぐには受け止められなかった。 妹。 母かもしれない人が、康生の妹。 その響きだけで、葬儀の席で見た康生の目が戻ってくる。静かな、ほとんど表情のない目。こちらを人ではなく、何かの位置として見ていた目。「葵さんは、今どこにいるんですか」「療養施設にいるという情報があります」「会えますか」 会えるか、と聞いただけなのに、声が急いだ。 会いたい、とは言っていない。ただ、会えるかと聞いただけだ。それなのに、胸の中のどこかが勝手に身を乗り出している。 律はすぐには返さなかった。「確認は必要です。九条家の許可、施設側の面会基準、本人の状態。どれも飛ばせません」「ですよね」 自分で答えて、書類へ視線を落とす。 飛ばせない。 それは正しい。正しいことなのに、こんな時だけ、正しさがひどく遅く感じる。「朝霧さん」 呼ばれて、私は顔を上げた。 律は、登記資料の上へもう一枚だけ紙を置いた。九条家の家系図ではない。雑誌記事でもない。古い財団の年報のコピーだった。「九条家の説明なら、できます。医療法人も投資会社も、康生の立場も」「聞いた方がいいですか」「……今、全部頭に入りますか」 私は資料を見たまま黙った。「たぶん、無理です」「私もそう思います」 その言
そこに刺繍されている紋を、相良さんが拡大した写真にしていた。 写真には、九枚の細い葉が輪になるように重なっていた。 葬儀で見た供花札の隅にも、同じ紋があった。 古い登記資料に添付された社章の控えにも、同じ形があった。 偶然、と言うには重なりすぎている。「九条家の紋、ですか」「正確には、九条本家が古くから使ってる家紋の一つです。社章として使われた時期もある」「一つ、ですか」「家が大きくなると、使い分けも増えます。冠婚葬祭、会社、財団、個人の蔵書印。全部を一つで済ませる家ばかりじゃない」「面倒ですね」 言い終えても、胸のあたりにざらつきが残った。私は一度だけまばたきをした。「否定はしません」 律があっさり頷いたので、私はわずかに息が抜けた。 面倒。そう言える程度には、まだこの話を遠くに置いておきたかった。 けれど、紙の上の名前は遠ざからない。「九条康隆さんは、静江さんの葬儀に来てたんですか」「本人は来てません。代理人が来ています」「どうして」「今は、理由まで辿れていません」「私は、その人のことを何も知りません」「今まで接点がなかったなら、当然です」 当然と言われても、名前の近さは消えなかった。 それなのに、知らない相手の名前が、私の出生に触れてくる。 人は名前だけで、こんなに近づいてくるものなのだろうか。 九条康隆。 会ったこともない人の名前が、机の上でこちらを見ている。 律はそれ以上、分かったようなことを言わなかった。 私は会葬者名簿の端に指を置いた。紙の表面は滑らかで、昨日の夜に見た青いファイルの古い紙とは違う。新しい紙は、余計に冷たい。「如月家が九条家に葬儀を知らせたんですか」「少なくとも、相良が確認した範囲では違います。如月側の案内リストに九条本家は入っていませんでした」「じゃあ、向こうが勝手に知った」「如月家を通さず、向こうで把握していたことになります」 会葬者名簿の端を押さ
翌朝、榊邸の書斎の机には、三つのものが並べられていた。 茶の匂いは薄れ、白い湯呑みの内側にだけ渋い色が残っていた。 守り袋。 静江さんの葬儀で使われた会葬者名簿の写し。 それから、古い産院の運営会社に関する登記資料。 どれも、昨日までなら別々の場所にあったものだ。 どれも単独では決定的に見えない。それでも、三つは同じ家名を指していた。 九条。 その二文字が、朝の光の中で妙に濃く見える。 朝食は、ほとんど喉を通らなかった。 宮野さんが用意してくれた小さな卵料理も、焼きたてのパンも、いつもならありがたいと思えるはずだった。けれど、口に入れる前から味が遠い。フォークの先で卵の端を崩しただけで、皿の上に黄色い線が残った。 宮野さんは何も言わなかった。 代わりに、温かいスープの器だけを少しこちらへ寄せてくれた。その距離が、今朝は助かった。 律は向かい側の椅子に座っていた。黒い仮面は、まだ顔を覆っている。 私の皿を見たあと、彼の右手が仮面の留め具へ上がった。けれど、触れる寸前で止まる。 「朝霧さん」 「何ですか」 「今、外しても?」 意味を理解するまで、一拍かかった。 「……私に確認するんですか」 「あなたの前で外すのは、これが初めてです」 必要な場ではまだ着けると言っていた。その仮面を、私の前でだけ外そうとしている。 私は膝の上で指を組み直した。 「見せてください」 律の指が留め具にかかる。かちり、と小さな音がして、黒い仮面がゆっくり外された。 右のこめかみに、古い傷が一本残っていた。けれど、噂にあった大火傷はない。私が見ていたのは傷ではなく、隠すものを失った律の表情だった。 噂の中の怪物はどこにもいなかった。それでも、初めて素顔を向けられると、どこへ視線を置けばいいのか分からなくなった。 律は仮面を机の端へ置き、私が何か言うまで待った。 「昨夜は、眠れましたか」 「ほとんど」 律は私の皿を見て、それ以上聞かなかった。
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし







